【映画レビュー:ギヴァー 記憶を注ぐ者】管理社会を描くディストピアSF

今回は、映画『ギヴァー 記憶を注ぐもの』の感想レビューです。

本作は典型的なディストピア作品。

作中で描かれるディストピアのあり方や、人間の幸福について自分なりに考察するのが楽しい作品でした。

小説『1984』『すばらしい新世界』がお好きな方であれば特に楽しめると思います。

今回のレビューにストーリー上の大きなネタバレはないので、観る前の方でもレビュー全体を読んでいただけます。

映画情報
  • おすすめ度:7/10
  • 原題:『The Giver』
  • ジャンル:SF
  • 公開:2014年
  • 長さ:97分(1時間37分)

序盤のあらすじ

舞台は大規模な戦争を経験した近未来。

平和と平等を実現するべく、人々は管理社会で暮らしていました。

毎朝摂取する薬によって感情の起伏が抑えられ、争いや差別とは無縁の生活。

住人はある年齢になると、長老によって職業を決められます。

青年ジョナスが任命されたのは、レシーヴァー(記憶を継ぐ者)という特別な職業でした。

その後彼はギヴァー(記憶を注ぐ者)と呼ばれる人物と繰り返し会い、人々が忘れている記憶を吸収していきます。

この管理社会をどうみるか

本作『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の一番の面白みは、作中で描かれるディストピア的世界について各自好き勝手に思いを巡らせるところだと思います。

ディストピアを全否定するもよし、ある程度納得するもよし。

あるいはそれこそあるべき姿だと思うもよし。

「こう考えなきゃいけない」という答えはありません。
(もしそんな縛りがあるなら、この世界こそ管理社会でしょう)

あらすじでも簡単に書いたように、本作の舞台はギチギチに管理された社会(コミュニティ)です。

細かい設定については実際に映画を観ていただくとして、ここではあまり深くは触れません。

コミュニティの人々は厳重に管理されることで、平和と平等を思う存分享受しながら暮らしています。暴力、戦争、虐待、飢餓、疾病といった負の要素とは無縁の生活です。

それは視聴者から見ても大きなメリットですが、その代償は少なくありません。

感情の起伏が失われ、職業選択の自由もなく、なんと家族ユニット(同じ家に住む人)も勝手に決められてしまいます。

このメリットとデメリットをはかりにかけて、視聴者はどう思うか。

喜びと悲しみはプラスマイナスゼロか

僕はというと、本作で描かれる管理社会を完全に否定することはできませんでした。

というのも、管理されていようとされていまいと、(完璧にそうではないとしても)人間の喜びと悲しみの可能性はプラスマイナスゼロだと思うからです。

要は幸不幸の起伏をどれだけ大きくするかという問題でしかない、という気がします。

コミュニティの人々の喜びと悲しみがどちらも小さい一方、視聴者である僕たちは比較的大きな喜びと悲しみを感じます。

なんとも辛気臭い感想になるのですが、プラスマイナスゼロなら結局どっちでも変わらないじゃないか…と思うわけです。

だから本作で描かれるディストピア管理社会が全くのナンセンスだとは思えません。それにも意味はあるし、1つの解ではあると思います。

 

ただ、主人公ジョナスの次のセリフもまた真理です。

「感情を持てないなら生きる意味はないよ」
(56分あたり)

これは同意で、コミュニティの人々のようにロボットのように生きても、言わばそれは「ただ生きている」のと一緒です。

「人生は良いことも悪いこともあるからいいんだ」とは言いませんが、ロボットのように生きることに意味があるとは僕も思えません。

他のディストピア作品を連想する

僕はもともとディストピア系の小説が好きで、ジョージ・オーウェルの『1984』や、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を読んだことがあります。

テーマがだいたい同じというだけあって、本作を観てこの2冊を思い出さざるを得ませんでした。

管理社会を描いた作品ということで、同じようなアイデアが散りばめられています。

薬の常用

『すばらしい新世界』では、人々はソーマと呼ばれる「楽しい気持ちになる薬」を常用します。

これは危険ドラッグということでもないのですが、本質的には同じで、人間の生化学的な部分を直接刺激して気分を良くする方法です。

『すばらしい新世界』を読んで、ソーマで日常的に気分を上げる人々に嫌悪感を覚えたのは、今でも印象に残っています。

本作『ギヴァー』でも、人々は毎朝SF的な装置に手を当てて薬を摂取することが義務付けられています。

上にも書いたとおり、この薬の目的は人々の感情の起伏を抑えて、平穏に過ごせるようにすることです。

薬で感情を日常的にコントロールするという点ではどちらも非常に近いものがあります。

 

しかし、「なんとも不思議な世界だ」と思うなかれ。

視聴者の世界もそれに近いことはいくらでもあります。

分かりやすいアルコールやタバコをはじめ、高カロリーなファストフード、砂糖がたっぷり入ったジュース。腹にたらふく詰め込んで気持ちよくなる。あるいは、週末の意味もない消費行動。

感情を直接制御しているわけではありませんが、これらの当たり前の習慣もどっこいどっこいだと僕は思います。

フィクションではないこの世界が完全無欠なわけはなく、作中で描かれる「変なこと」も、よくよく考えてみるとその亜種が日常に根を張っていると感じました。

言葉も管理する

ジョージ・オーウェルの『1984』では言語を作り変えることで、管理社会を一層強固なものにしています。

人が物事をハッキリと考えるには言葉が必要です。

単語や文法を作り変えてしまえば、言語を社会の都合のいい道具にでき、ひいては人々の思考すらも管理できます。

『ギヴァー』でも言葉の管理は存在します。

僕が見た限り、言葉の管理は次の2つの形で見られました。

  1. みんな知ってはいるが、使うのは好ましくない言葉
  2. (長老など管理者以外)誰も知らない言葉

例えば、ジョナスはレシーバーとして封じられた記憶を少しずつ継承し、言葉を自由に使い始めます。

しかしその中には適切でないものもあり、家族から注意される場面がチラホラありました。

これが「知ってはいるけど、使ってはいけない言葉」です。

一方、視聴者にとってはあまりにも当たり前な言葉が、コミュニティの中ではすっかりなくなっていることがあります。

例えば、愛や音楽などがそうです。

愛や音楽は人々の感情に起伏をもたらします。

愛や音楽が起こす感情はポジティブなものですが、この管理社会では感情の起伏そのものが好ましくありません。なぜなら、感情が自由に働けばそれはいつか争いや差別といった負の側面に繋がりうるから。

言葉を管理すれば、思考を管理できる。思考を管理できれば、社会も管理できる。

1984でもそうですが、これは個人的にかなり面白いアイデアだと思いました。

ツッコミどころはある

作品の面白さを損なうものではありませんが、ツッコミどころはどうしてもあります。

別に作品を批判するつもりはまったくないのですが、印象に残ったことを書いてみようと思います。

ネタバレではないのですが、まだ観ていない方はしっくりこないと思うので読まない方がいいです。

 

そもそもギヴァーとレシーバーという職業の存在自体ちょっと矛盾しています。

コミュニティにとってギヴァーが持つ記憶は、秩序を乱しうる非常に危険なものです。

ではなぜギヴァーがいるかというと、どうやら記憶をもとにして管理者たちの委員会に助言する役割があるとのこと。

これを言い始めると作品が成立しないのですが、果たしてそんな助言や職業が必要なのか?とは思いました。

管理社会をどう運営するかは完璧に決まっているように見えたので、もう過去の記憶は必要なさそうです。

それならギヴァーやレシーバーといった職業は廃止して、記憶に関する情報も全て破棄した方がいいはず。

 

ジョナスが感情の起伏を取り戻すのはレシーバーとしてギヴァーから記憶を受け取ったからです。

「こんな世界おかしくはないか?」とハッキリ思うのも、それ以降のことです。

実際、ギヴァー、レシーバーと関係ない普通の職業の人々は、コミュニティのあり方に疑問を持ってすらいません。小さい頃から徹底してルールを刷り込まれるからです。

つまり、ギヴァーたちがいない状況では、秩序が乱される要因がないのです。

元も子もない話ですが、もはや危険分子でしかない職業があるのは違和感でした。

おわりに

以上、映画『ギヴァー  記憶を注ぐ者』の感想レビューでした。

最後に突っ込みどころを書きましたが、それは正直どうでもいいです。

さらに言えばストーリー自体もそれほど意味はなく、ディストピアのあり方や、そこから浮かび上がってくる人間の幸不幸への考察が本作の一番の魅力です。

つまり、観ること自体よりも、それを材料に自分で考えるのが面白く感じました。

地味な作品ではありますが、ディストピア系の作品が好きな方であれば得るところの大きい作品だと思います。

今回は以上です。